『これであなたも谷崎潤一郎!!!』(笑)
西田幾多郎著『論文の書き方』(岩波新書)は、文章作法の基本的な心構えなどが書かれた「文章読本」としては良くできた本である。「が」の使用範囲が広いため使い方に注意しようという技術的なことが書いてあるかと思えば、「文章とは観念の爆発である」など岡本太郎を彷彿させるようなことも書いてあり、内容としては練られたものであるので一読する価値はある本である。
さて、文章読本というものは本質的にポルノグラフィティである。名教師と同じで耳障りのいい言葉で、確かにそれは正しいのだけれど、何もわからない若者に自分自身で試してみる前から「わかっている」気にさせる、葛藤も何も感じさせない安易な満足感を与えるのである。わずらわしい、理不尽極まりない「他人」や「読者」がそこには、いない。
この本がベストセラーになった時、日本は受験勉強が出世の道具として門戸を拡大していく、エリートの大衆化がはじまった時代であった。私はいつも思うのだけれど、本当に小説なり文章なりに触れたいという人はごくごく少数で、大多数は読んでいる自分の世界を肯定したいがために、もっというと、自分自身に酔うために、本を読んでいるのだ。誠に不思議なことではあるが、『三日で登れるアイガー北壁!』とか『老後でも勝てる!ヒクソングレイシー攻略百考!』という本があれば、せいぜいギャグ本にしか読まれないだろうに、なぜか『これであなたも村上春樹!』と言われるとリアリティを感じてしまう。これはひとえに文章というものが大衆化したという証拠、ゴルフと同じで貴族の趣味が大衆化したということに他ならない。この時代の人々も、「いつか自分は小説家になれるかもしれない。そこまで才能はないかもしれないけれど、勉強だけではない自分をどこかに発見したい」という思いを『論文の書き方』に投影していたのではないだろうか。これは自分達の立ち位置が「勉強で勝った」以外はっきりしないサラリ-マン中流階級の教養コンプレックスともいえる。
私は今まで本を読んできた中で、はっきりわかったのは表現と呼ばれるあらゆるもののうち、限られた数ではあるが、その人間の人生が乗り移っているとしか思えないものがあるということ、そしてそれが非常に暴力的なものであるということだ。幸い、『論文の書き方』には暴力性はほとんどないけれど、このインテリ好みの言葉遣いを殴り返して一人前になれる、のか。反「文章読本」の一歩としておすすめする。
ただ、何を「美しい」と感じるかは、もはや選択の問題ではないという疑問も消えなくもないが。