ネットにいいことはない。本や映画で知識・経験を蓄えよう。
基本的にネットは社会に悪影響しかもたらさず、思考を短絡化させる。
感情的に反応するということや、何より考える時間を奪うからだ。
考えてみると、資本主義は時間を奪う思想だった。喫茶店で音楽が流れるのもそれが最も効率のよい装置だからだ。
ネットはリアルで強い人をさらに強くするが、そうでない人はドンドンだめになるが、それは結局のところ、基礎的な学力というか知識・判断力の差なのだ。
情報の量やスピードが早くなると、当然それが正しいかどうか、価値があるかどうかなどを判断する必要に駆られるが、それは訓練と学習を通してしか身につかない。
つまり、情報に対する「責任をもって向き合うチャンス」と「失敗の経験」だ。
職場で又聞きしたことを人にそのまま話して失敗した機会がある人はわかるだろうが、伝え方や自分で理解していないと、すぐに論理が崩壊して人間関係が悪化したりする。
こういう失敗の経験を責任のある立場でやらないと、リテラシーは身につかない。
つまり環境が重要だということ。
リテラシーは要するに失敗をどれだけしたか、だ。
メールを頻繁に送りすぎて失敗した、とか。
こういう繰り返しがメールやSNSとの距離感につながる。
落ち着いて時間がある人はこれができるが、時間自体がないとせつな的になる。
恵まれた教育環境がないとこれは育ちにくい。
背景知識も必要だ。
背景知識のためには、いい本、いい仲間、いいセンセイが必要になる。
どうしても本をよむだけだとだめで、仲間とすりあわせないといけないし、その分野に詳しい人にぶつけていかないといけない。仲間と議論していくなかで問題点が絞り込める。また、そうしないとどうしても学習意欲もでない。性質の違う仲間と交流することも大事。センセイがいるといい本やいい仲間がいるので、相乗効果が生まれる。このトライアングルで良質で幅の広いものをどれだけもっているか、がかぎになる。
こんなことはネットが普及する前から分かっていたことではあるが、ますます重要性がたかまった。
なんというか状況がセキュリティとにていて、周りに「だまされる危険」みたいなものがあるように感じられると旧来からの結びつきが重要視されるようになる。
だから、資本主義は基本的により人を閉鎖的にさせる面があるのではないかと思っている。
この辺りは1970年代にベトナム戦争とオイルショックで製造業を中心とする資本主義のモデルが行き詰ったところから、IT・金融空間に資本主義がシフトしていく過程で起こったことで、このラインで考察を進めたいと考えている。