アジアで就職したらブラック企業だった~南の島は蟹工船~

東南アジアでブラック企業に就職し、ストレスから入院し逃げ帰ってきた人間のブログ。        注・このブログはモデルとなった現地企業で働く人々などへの取材をもとにしたフィクションです。ただ、実際に起きている「空気感」は本物です。その辺りを味わっていただければと思います。

風の吹くまま、人の死ぬまま

これは、「3・11を振り返って」という課題です。

 

人間の思考と生まれ育った風土とはどの程度関係があるのだろうか。北アフリカやイタリアの貧乏人が不思議と不幸せそうに見えないと聞いたことがあるが、地中海では「太陽が平等に照らす」(アルベール・カミュ)からだろうか。確かなことはわからないけれど、人間も自然の一部である以上、密接な関係があるように思われる。

 今回の地震を取り巻く言説で最も興味深かったのは、日本という国は何か困難に直面した時、自然災害のように捉える傾向が非常に強いということだった。「震災」や「人災」、「戦災」など「災い」という言葉を、原因が自然現象にあるのか人為的なものにあるのかに関わらず使っている。「災い」は、自分たちでコントロールできない神のような存在が前提になっており、およそ「やりすごすしかないもの」というニュアンスを含んでいると同時に、人間の犠牲を軽視する「安易さ」がある。

被災地の惨状をテレビや新聞で見て、生活が一日も早く元通りになることを願う一方、敗戦後の「戦後復興」に無批判になぞらえることに私は同様の「安易さ」を感じてならない。今回の福島第一原子力発電所の事故が、なぜ最大電力消費地の東京でなく福島で起きたのか、そもそも地震国でなぜ原子力発電所を大量に建設したのか、という疑問をたどっていくと、明治以降の日本の「西欧の仲間入りをして一等国になりたい」という独善的な態度にいきつく。それは過去に一度、第二次世界大戦での敗北という形で挫折したけれど、「戦災孤児」という言葉に見られるように「災難」として捉えられ、無反省なまま朝鮮戦争ベトナム戦争の「特需」による経済的繁栄を手に入れた。それが「戦後復興」であり、今回の福島第一原発事故の本当の原因だと私は考えている。

広島、長崎に続き、三度目の被爆国となった日本。日本だけが悪いというわけではなくて、資本主義や国民国家というシステムの問題、人間の欲望、帝国主義という時代、偶然など様々な原因が重なっているのは理解できる。しかし、責任や倫理という人間が社会を作る上で最も基礎となるものを今問い直さなくては、何らかの形でまた「災い」が起こるだけだろう。「歴史は常に強者の側から語られる」といったのは批評家のヴァルター・ベンヤミンだが、弱者や虐げられた者の語られない歴史にこそ、本当に学ぶべき教訓がある。

私は現在力を持っている世代にはまともな人間が少なすぎると思うが、もし私達の世代に課題があるとすれば「経済合理性から考えれば、原発は必要」とか言う自分たちの怠惰な神経と闘うこととならざるをえないだろう。福島で犠牲になった人々のためにも。本当に怖かったあの日を繰り返さないためにも。