アジアで就職したらブラック企業だった~南の島は蟹工船~

東南アジアでブラック企業に就職し、ストレスから入院し逃げ帰ってきた人間のブログ。        注・このブログはモデルとなった現地企業で働く人々などへの取材をもとにしたフィクションです。ただ、実際に起きている「空気感」は本物です。その辺りを味わっていただければと思います。

悟りと自明

 宮田珠己著『晴れた日は巨大仏を見に』(幻冬舎文庫)は宮田氏が全国にある巨大仏を巡るルポルタージュであり、茨城県にある高さ120メートルの日本最大の「牛久大仏」からスタートし、大阪にある岡本太郎作「太陽の塔」など合計14カ所を訪れる。宮田氏に個性的な(変な?)編集者が付き添う形で描かれる様は、「庭を見ると欲情する」という宮田氏や「仏像がソウルミュージックの要素があり、マニアックで腰に来る」という和久田氏の発言など、元々風変りな旅を一層彩っており、それが一つのスタイルとしてくどくなっていないのが、独特なおもしろみである。巨大仏も種類が豊富で、非常階段を背中に背負う「北海道大観音」など周囲との「調和」を拒否した「マヌ」景(本書引用・間抜けな風景のこと)を見事に飾っているのも笑いのポイント。

本書の宮田氏のテーマは、「この世界があること自体の怖さ、理由もわからないままにこの世界が厳然と存在し、そこにどこからきたのかわからない自分がいる、という怖さ、それを人工的に少しだけ感じさせるのが巨大仏なのではないか」という一文に集約される。見る者に「ぬっ」と迫ってくる「物自体」が醸す存在感、意味付け・理解を拒否する「無意味さ」こそが、巨大仏が「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」を表しているというのである。

私が『太陽の塔』を実際に見た時も、「これはこのままでしか捉えようがないな」と思ったものだった。そして同時に、そんなものに「意味」を求めようとする自分がばかばかしくなった。万博はとっくの昔に終わったけれど、あれは今でも太陽に孤独に向かい合って、平気でそこにある。もし、芸術というものに「まっとうな基準」があるとするなら、それが本質的に「反社会的」であるかどうかだ、と考えるようになったのはそれからである。

筆者は巨大仏に「怖さ」を感じているけれど、理解できないということは確かに「怖い」。だが、それこそが自分は自分であり、相手が相手であるということ、ひいては世界が世界として存在するということだ。

もし、私がある日突然、社会の側から「お前なんてこの世に必要ないのだ」と言われて殺されても、どちらが正しいかなんて誰にもわからない。私には彼らが理解できない様に、彼らも私が理解できない。だから何なのだろう。ただそうなる、それだけのことだ。悟りというものがあるとしたら世界は自明なものであると気づくことなのかもしれない。

本書は宗教・芸術のおもしろく、それでいて最も忠実な入門書なのである。

 

 

晴れた日は巨大仏を見に (幻冬舎文庫)

晴れた日は巨大仏を見に (幻冬舎文庫)